小説「琉球処分」は、近現代社会で中世的貴族が変化を嫌い支配権力の放棄を拒み、無知蒙昧の愚策を重ね無駄な歳月の費やしを活写した至極の大作
故・大城立裕 先生の 琉球処分 上下を読了した。
1968年に、初めて分厚い単行本を求め挑み、その頃は、
約1ヶ月ほどを要しました。
1997年に再読した時は、パキスタンへの往還の際に、
約10日ほどを当てました。
今回は講談社が出版した文庫本を上下2冊で、1日づつを当て、2日で完読できました。
明治初期の琉球(沖縄)は、
現在の日本そのものであるともいえ、同時にそのまま現在の沖縄だと眺め観ます。
例えば、
普天間の辺野古移転を巡る分裂と騒擾の経過は、
明治初期の「琉球処分」を彷彿とさせます。
それは、明治新政府により国家機構が一新され、
統治体制も革命的に改革され、薩摩藩は消滅し「琉球王国(沖縄)」は、
日本の中央権力が逼迫する当時の国際情勢をみて、日本への組み入れを決定し計ります。
しかしながら、
琉球王国が、日本と清国に「両属」すると主張して止まない統治を掌握し組み入れ(措置す)る一連の過程で、
武力もなく産業もない「一国一藩」が、地域の蚕食を競い合う国際社会で独立した主権を保ち続ける事など不可能で、
日本の主権内(領土・領海)であると、宣布する上で、名実ともに「沖縄県」として編入する過程での、
禺にもつかない「議論のための議論」「言い訳のための言い訳」「時間稼ぎのための時間消費」を、琉球王国は「ああ言えばこう言う」を繰り広げ、
凡そ5年を要する「衆禺」の「愚論応酬」を眺め観た歴史的な大作です。
繰り返される変化を嫌う思考体質は、
地中深くまで染み込み染み渡り堂々としています。
これは、
辺野古移転を巡り繰り広げられる愚かとも言える「衆禺政治」の繰り返しを眺め観て唖然とさせられ続けています。
「辺野古移転」の考えの底流にあるのは、明治のテーマも外形上は異なりますが同じ構図です。
とりわけ「WWⅡ」で地上戦に非戦闘員の民間人が協力したものの、
時には日本軍兵士から受けた暴行や恥辱があり、
その敗戦によりUSの支配下で受けた27年にわたる苦難の積み上げが、
止めどのない基地負担の重圧を含め日本への政治不信が根源にあるのです。
沖縄は、
慶長の薩摩・島津による占領従属支配から、
明治新政府により約70年程の間、監督されながらも沖縄県としての行政を担いましたが、
WWⅡの激しい地上戦を経て再びUSが支配者となり、
都合約300年にわたり「自主思考」を奪われ、薩摩と琉球王国から二重支配され、
またUSと日本から二重支配を受け、自ら主体的に考え先を見透す事を奪われ続けてきたワケです。
薩摩支配の過程を含め、「明」および「清」の中国を、当該地域の覇権者として認め進貢し、
一方では、日本(薩摩藩)と「両属」する事により、琉球王国を維持し、
その政治を差配する思考停止で形式的な前例優先主義の「中世貴族」たちが、
近現代社会にまで支配権力層として蔓延っていたワケで、
その平和的な解体に取り組む困難と抵抗を資料に基づき小説として記したのが「琉球処分」です。
これは、
日本の現代政治にも置き換え考えると、多くの事象が当てはまる至極の作品と断言できます。
現代日本の政治権力を執行者として握る優秀な官僚は、
明治初期に「琉球王国」を支配した中世貴族の思考停止と然して変わらぬように見受けます。
ご一読をお勧めします。
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