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2024/12/31

佛教が掲げる広大無辺の「哲学」はその真実ゆえに衣の襞にも及ばずながらも一端の「照見五蘊皆空 度一切苦厄」に愚鈍は触れ「煩悩」に救いを求むか

歳の瀬は、何かと多忙で急ぐ必要もない事に囚われ立ち回りますが。
そんな中で、年も押し詰まると「煩悩」を除ける事が話題にもなり・・・
そもそも、煩悩とは、ナゼ百八なのか?


それ以外に煩悩はないのか?
「百九や百十あるのはイケナイのか?」などと聞かされた事もありますが・・・


悟りを得る過程での学び(気づき)、照見五蘊皆空の概念が実に重要です。


佛教を気づきの「哲学」と捉え発展させ、人としての悟りを得るか、その集大成の一助として考えるかで実は壮大さが大きく変わります。


2024年の初夏に、簡易ながら本質に触れた記述に出会いましたので、必要箇所を引用し紹介しておきたいと。
インドの哲学の広さ深さは途轍もなく、未だにホンの一端しか捉えられず議論もされずではないかと眺め。


その過程で歳末大晦日日に「煩悩」の一端に触れ考えを深めたく。

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照見五蘊皆空 度一切苦厄

引用開始→ 三毛猫モカ@エッセイスト&プログラマ (2024年5月12日 07:00)

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時
観音さまは、悟りを深く実践され、

照見五蘊皆空
五蘊は全てが『空』相であると観て、

度一切苦厄
一切な苦しみから人々を救済している。

照見五蘊皆空

五蘊とは、私たちが持っている肉体と精神を指します。

(これは上記記事にも書いた内容ですが、また開き直すのも面倒でしょうから、コピーしておきますね。)

・・・物質的に『形あるようにみえる』もの。まさに今も肉体機関によって認識しているもの全て。
・・・それらを受け取り込む器官。目や耳、鼻?
・・・それらを何であるか見極める働き。判断力?
・・・心がある方向に働く働き。喜び、悲しみ、怒り?
・・・自らの状態を知る働き。認識力?

人は、これらから刺激を受けて、様々な考え方でそれぞれに行動しています。
でも時には、欲が更なる欲を生んで、”底なし沼”状態。
あるいは、一つの考え方に傾くと他のことに目や耳がいかなくなる・・・”恋は盲目”とか。
それが『自分にとらわれている』状態であり、やがて「苦しみ」の原因になっていきます。

度一切苦厄
『全てが、永遠不変ではなく、常に移り変わり続けるものでしかない。また、それぞれ単独では存在を維持することが出来ないものである』と観るならば、それらから生じる苦悩・煩悩もまた移り変わってしまうものでしかないのだ!と、観音さまは説かれるのです。

『見』と『観』
さて、皆さんも般若心経では「みる」という言葉に、『見』と、『観』という2つの漢字があることにお気づきかと思います。

『見』が普通の『みる』なのに対して、観』には、内面的なものまでもみるという意味が含まれています。
〈watch とsee の違い・・・と言っても良いのかどうかは、私には判断がつきかねますが。〉
それは、お経を訳した玄奘三蔵の意図であり、大きな功績の一つです。

物事は、必ずしも自分の目に入ってくることのみではない。見えない面もあるものだ。だから、そんな『あやふやな自己感覚・自己判断』だけに頼るな!見えていない部分や本質までしっかりと観よう!
それが仏教の考え方です。

物事を多角的に『観る』
たとえば、今ここに三角錐さんかくすい があるとしましょう。工事現場や道路上に置かれるコーンのような、あの形です。
あれは、見た目が角度によって変わる典型的な良い例です。三角だったり円になったりしますね。それと同じことが、全てに当てはまるのです。

具体的な例も挙げましょうか。
高齢者や障害者に、子供言葉で話し掛ける人がいます。タクシー乗り場で乗車拒否したドライバーに遭ったこともあります。最近はだいぶ減ったかな・・・。
「アンタね~!」と言いたくなるのを抑えて、「あ~ぁ、この人は、見た目でしか判断出来ないんだな。」と思ってます。

多角的な視点で『観る』ことを常に心がけて、より心豊かな生き方をしていきたいものです。

そして同時に、
ありとあらゆるものは、常に移り変わっていて、永遠不変ではない。どのような『苦しみ悲しみ』であろうとも、消える時は必ず来る。それどころか却ってそれが良いことの土台になるかもしれない。過大には受け止めず、固執したり、ずるずると引きずったりもせずに、どんなこともただ受け流して先に進む・・・。

それによって、人は安らぎを得る。・・・それが救いとなるのではないでしょうか。←引用終わり

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