都市は中央として、多くのヒト・モノ・カネ・コトを集積し「中央権力」だと覇をとなえ周辺を従え簒奪し収奪するが、辺境は自律し自立を護りぬき孤立を怖れぬ
権力中枢としての「中央権力と中枢集積社会」:
中央というモノはない!
それは単にヒト、モノ、カネが集積された仮の場に過ぎない。
それを格好づけして認めようとせず、更に集積を続ける事で、
当然の事ながら機能が追いつかず破綻寸前の淵にあると観ています。
中央という概念の場は、
統治のため支配者が「中央権力」としての機構を形成し、
権威づけ、合理的に速やかに号令するため様々を集積させ構築します。
とりわけ「都市機能」を強化する事で周辺を簒奪し肥大化させます。
都市の集積は「善」を集合させるに止まらず、先ず「悪」も集積させ抱え込むのです。
「周辺」は巧妙に簒奪され続け組敷かれ、やがて「辺境」をも簒奪するのです。
「都市」に描く希望や期待は、殆どが「幻想」に過ぎないのですが、
そこに集積され統合されるヒトは、なぜか大きな「共同幻想」を描かされるワケです。
その「共同幻想」は構造化され強く刷り込まれ、強く呪縛され解けない。
「都市」が強要する「共同幻想」は集積したヒトを「現代奴隷化」して縛り続け、
搾り続ける事で「都市」としての機能を維持し生き続けます。
とりわけ「都市」における「共同幻想」は「依り立つ術」で、
何より縋る手段の一方法でもあります。
しかしながら「辺境」には、集積地を冷静に眺めるだけの目があり、
自らの生命を繋ぐための原始的と言われても技や知恵があり、
それは「都市」の集積を遙かに上回る貴重な価値を保っています。
残念ながら「都市」の膨脹で、
無念な事の一つは「周辺」が固有の貴重な価値を喪い、
寧ろ彷徨う事になるのだが「都市」が繁栄している間は気付く事がないと考えています。
「辺境」は彷徨っても基本的に「自立」し「自律」しています。
なぜなら、自らを「律」し、自らのチカラで「立」ち続けなければ、
自らの「生」を維持する事ができないからです。
「辺境」は、現代文明に関わらず「文明」が築き上げたモノや利便性の恩恵には遠いながら、
自然や環境が提供する世界では「知恵」や「技術」が伝承され維持する事で「条件」を克服し、
生きるチカラを「文化」として保ち「生命」を繋ぎ続ける事ができます。
「中央」としては、
あらゆるヒト・モノ・カネを集積し機構としての統治権力を形成し、
カネのチカラで「周辺」を従えても「辺境」を従える事は凡そ不可能な事は、日本に止まらず「世界の歴史」が示しているのです。
いま、
何れの国も、いずれの地域でも、中央権力により細かく刷り込まれた「共同幻想」に覚醒し、
統合を嫌う「ムーブメント」が徐々に姿を表し、
中央による「ヒト・モノ・カネ・コト」からの自立が起き始め静かに姿を表し始めています。
(写真は、沖縄県恩納村の万座毛です。投稿との関係はありません)
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