沖縄を戦場にした「沖縄戦」は3月23日の米軍艦載機による機銃爆撃で始まり、26日には座間味島へ上陸、4月1日に本島上陸で火蓋が切られ80年経過
1945年3月23日~24日、沖縄の離島「慶良間諸島」へ米軍が艦載機で機銃爆撃を始めた日です。
26日には、上陸戦が始まり本島での作戦を後方から支援する前線兵站基地になりました。
4月1日には沖縄本島への上陸作戦が始まり、
結果的に第32軍は読谷村の「沖縄北飛行場」嘉手納村の「沖縄中飛行場」を放棄し、
首里城の地下に造営した司令部へ移り頑強な徹底抗戦を非戦闘員にも強いた。
それにより、
沖縄県民は、4人に1人が戦死。全体では軍民合わせ20万人弱の犠牲者を生んだ。
この事実は、いま猶、払拭できぬまま底流に流れ、容易に解決できない問題の根をなしている。
(添付の写真は、沖縄タイムスのサイトからDL)
沖縄では、米軍が、80年前の3月26日に「座間味島」へ上陸し、
日本軍の守備隊は呆気なく崩壊し占領されました。
その過程で、稚拙な日本軍の守備隊は島民に対し、
「虜囚の辱めを受ける事なく自決せよ」と求め、非戦闘員の島民に
「集団自決」を強制し、従わない者へは制裁殺害を加えたと記録され、
根深い「日本軍不信」「軍事不信」に繋がっています。
慶良間諸島の座間味島だけに止まらず、
沖縄本島の戦いでも「第32軍」は殆ど戦闘能力がないにも関わらず、
防空壕や待避壕に充てた「ガマ」から住民を追い出し、なけなしの食糧を奪い、あるいは不服従者を殺害し、
敗走に次ぐ敗走を重ね6月23日に南部の摩文仁まで追い詰められ、
3ヶ月にわたる敗走戦の末に喜屋武岬で果てたのです。
その後、
27年にわたる米軍統治、日本への施政権返還という主権を回復してからの53年、
強制収容された土地は戻らず、日米地位協定も根源は変わらず米軍は統治者であり続け、
事故や犯罪は減らず周辺機器は高まり続け、WWⅡの戦後80年と言われても、
苦しみと混迷だけを押しつけられ続けているとの不満は根強く。
観光振興で年間1400万人を遙かに超える観光客が、
国の内外から押し寄せながら、単純労働の雇用に因る「労働所得」以外の膨大な利益の大半は、
本土から投資した資本、あるいは海外から投資した資本が持ち去り、
沖縄には実質的に何も残らない「植民地」状態が続いている事も、
踏み付けられたままだとの怨嗟に近い感情が色濃くあります。
「現実に迫る脅威」と「筆舌に尽くしがたい過去の強制体験」に
加え、「自らの立ち位置を自らが設計できない不自由」を、
軍事論や戦略論を語る前に、共に苦悩し解決へ苦闘する事が必要不可欠だろうと、
毎回の訪問時に感じ続けています。
その根底には意識しないまま、構造的差別が色濃く刷り込まれています。
(その意識が、抜き去り難い沖縄との「鋭角的な対立」を招くのです)
口先の勇ましさより、
沖縄を覆う「苦しみ」を解くには、
日日の幸を共にする(できる)事「抜苦与楽」が最重要なのだろうと。
それだけ、明治開国と共に急いだ「日本の近代化」が、
「人を軽視した」極めて「安価な命の代物」であった事かと・・・
「戦争兵士の思想」「社会経済の思想」を振り返る事なく騙る事は、
あらゆる戦争犠牲者に対し、
また現代でも引きずらされている人に対する冒涜ではないかと深く考えるのです。
中公新書の書籍を添付し、ご紹介に代えます。
| 固定リンク