日本というか東京都を軸に首都圏の行政も棲む人も「冨士山 大爆発」に対する備えはできているのか? 政府を率いる内閣は「防災庁」を設けるといい
東京を始め首都圏は、
全体に「自然災害」に対しても、「戦乱」に対しても、実に無警戒で安穏とし、
日々の穏やかな暮らしが続き、尚かつ維持されるとでも考えるのか「備えず」に、
もぉ現在の「能天気」さには呆れ返るばかりで「へぇ~!?」としか思わないですねぇ。
例えば、
1985年頃に「冨士山」が、大爆発すると言った人物があり、
日本国内は百花迷走となりました。
しかし、「冨士山」は爆発せず、代わって「伊豆大島(三原山)」が爆発しました。
また、三宅島も爆発し噴煙を高層域まで撒きました。
その後に、「西之島」が海底から大爆発を繰り返し、
遂には太平洋上で立派な「火山島」となり「西之島」と名付けられました。
これらの大爆発は、全て「冨士山」に連なる火山帯の活火山なのです。
代わって横から大爆発したと考えるべきです。
「西之島」は海底凡そ6000mから立ち上がってきた島です。
それだけの「溶岩」や「噴煙」を恐ろしいまで出したワケです。
「冨士山」(大爆発)について、
国も東京都も、首都圏の一都三県も、何も考えず次々に都市再開発の投資を無造作に推進し、
全国各地から人口を集積し、足りぬ分を外国から寄せ集め、「世界都市」だと、
実に多様で複雑奇怪な階層社会を造り出し、事が生じ都市機能を喪うと治安も保たれず、都市としての機能を喪い、
統治を回復させるまで、一気に「不安定な大都市」へ転げ落ちる事だろうと考えてしまいます。
生活地域内で孤独を喜ぶ徹底した個人主義の暮らしぶりは、各人が得る情報も個々で統制というか正確さを欠くであろうし、
意図的な流言飛語は飛び交うだろうし、備蓄もないため物流が停まると「喰いモノ」が枯渇する事で、奪い合いが生じるのは防ぎようもない。
最初の2~3日は、生き延びた人は精神的に「ハイ」状態で、辛抱し合うだろうが、「腹が減っては戦もできぬ」が否応なく襲いかかる。
避難所は、想定のキャパシティ以上が押し寄せ、それへの対処(維持や整理=配分を含む)は殺人的な状態に陥るだろう。
生存する人は、出身の郷里を目指すかもしれない。
しかし、冨士山の爆発なら、西へは陸路での道はなく動けない。
通信は電源枯渇で端末も基幹機器も動作不能で役に立たない。
2~3週間。自らの生命を繋ぎ、家族の生命を繋いだとして、喪った資産や業務を如何に回復し、
生活の糧としての収入を得る事ができるのか?
首都圏で、少なくとも2000万人は、余剰になるのではないか?
それを、ローカルの他地域で引き受けよと言っても、それは無理な話でしかない。
防災庁だ、防災省だ、などと威勢のヨイ事だけは一丁前だが、
実際に、冨士山が大爆発した場合の避難も救援も復旧も、
机上の空論すらないのではと冷ややかに眺めている。
東京への過度な一極集中が、現在の日本国を創り上げたが、
それは余りにも無防備で無原則で無責任が産み出した「能天気な幻想都市」かも知れないと、
思わず疑わず考えもしない人は実に倖せな人である事か。
そこまでして東京というか首都圏に仕事を求め、
僅かな給与という餌で釣り上げられ、縛り上げられ身ぐるみ剥がれ、
奴隷契約を呑まされ不満はあっても口にせず、自宅や個人の世界で社会的不平不満を吐露するSNSに救いを求めて暮らす。
そこまでの「不健康」を甘受しても、
冨士山が大爆発すりゃ一瞬にして、何の準備もなく全てが崩壊するワケだ。
「阪神淡路大震災」から30年を経て、
この間の経験を基に「防災減災耐災のNPO」を立ち上げ、
各自治体と協同し「自然の地殻災害」に対する対処対応を追求してきました。
最も熱心なのは「静岡県」で、次が「東京都」ではありますが、その東京都でも、
「冨士山」大噴火への対処方針は弱体ではなかろうかと経験的に思量します。
その基本は「予想が付かない」と、されるためで・・・
しかし、シュミュレーションとしては、フィリピンでピナツボの爆発が精緻に
記録されていますので、それを一つの仮定形に用いると最低限の事は予想できるのではないかと・・・
その上で「避難」と「生き延びる事」を丁寧に想定し抑える事が重要です。
しかも、仮に「避難想定」でも「朝の通勤時間帯」「昼間のオフィスタイム」加えて
「夕刻の退勤時間帯」また「夜半の居住時間帯」あるいは「休日の外出先での遭遇」。
それは「都心の集客地」と「郊外の行楽地」では、全く対処対応が異なります。
公として、
これへのシュミュレーションを行い必要なアナウンスメントを的確に適正に出し誘導できるか?
それを受け、民は自らや家族を護る行動が採れるか?
そこが最大の問題なのでして、殆どの公も民も見えておらず、大きな懸念があり。
「食糧備蓄」は重要課題ですが、最重要事項は「避難、収容、救援、救助」なのです。
その上で、食と生命のロジスティックではありませんか?
常に、そのように捉え、課題として提起し、公も民も自覚と自衛を指摘しておきます。
考える時ではないのですか?
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