日本社会を形成する大半の日本人に食料品も衣料品も工業製品も「わが安売りの哲学」だと安価提供を強い「付加価値やサービスを強奪」した中内功
日本生産性本部の代表として茂木友三郎会長が「サービスはタダではない!」と、
警鐘を述べられたようで、これを取り上げなければならない事に悲しさを禁じ得ない。
凡そ、
半世紀前に開発取り組みに際し「コンセプト」を考え、誰にも分かる形をデザイン形成する前に、
様々な考えを集約し無駄で無用な点を削ぎ落とし、チャプターというか大原則の基本概念を整理した。
その「ソフトウェア」というか、
原則(規定)が無ければ「基本設計」も「デザイン」もできずなのだが、
それらを提言し合意する場に提議した時に、否定的ではナイが、俄に合意できない空気が支配的で。
後に、
「あの程度の文言を、あの程度の若造から受ける必要など無い」というのが通り相場だった。
多少の文言や表現を修正し、
その途で一定の権威を保つ学者(研究者)の提言と問題提起へ切り替えた。
すると、
「(さすがに)目の付け所が違います」と、大半が擦り寄る現象を目の当たりにした。
(実に、大笑い開眼だった!)
さて、
その費用を巡り「一騒動」が生じたのは、お約束の事だった。
即ち「考え方を纏める」という(ソフトとしての)思考過程を認めないのだ。
認めるのは活字にする過程の文書費だけで終えようとする。
中には「A4の用紙1枚じゃないですか」と、堂々と言う人もあった。
これが、(当時の)日本を代表するトップ企業の企画部や社長室の優秀なスタッフなのだから、
実にオソロシイものだと考えた。
つまり、
当時も今も「サービス」は「無償の行為」という概念が、
日本では地中深くまで染みついているのだろうと。
「ソフトウェア」がなければ「ハードウェア」は刺激されず、
開発もされず発展もなく、また「ハードウェア」の開発提供がなければ「ソフトウェア」の発展も開発もないのだが。
この関係が分からない限り、
今、目の前で受けている「サービス」は無償の行為(つまりタダ)であり、
対価を払う必要などないとの思考が頑強に定着してしまっているように感じています。
かつて、
ダイエーを率いて果てた中内 功こそ、「その罪、万死に値する」と今でも断罪している。
誰からも相手にされず、見棄てられ失敗し続けた事業は山積し、それらを含め因によりカネが廻らずクビが回らず死して果てた。
他者の「付加価値生産」を認めず、基本的には誰かの利益になったようで、実際には誰の利益にもならなかった。
それどころか、日本人の根底に「付加価値生産」を否定し、あるいは「サービスは無償」を植え付けた罪は大きい。
半世紀前に若造が受けた衝撃からは、
多少なりとも改善はあるのでしょうが、
生産性本部の会長が取材に応じ指摘する形で一石を投じられた事に驚きがあります。
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