ベトナムの南部解放50年を心から祝します! 「南國山河南帝扈」は千年を超える精神で「越國是越人之國哉」は解放戦争中に掲げ大多数が熱く支持
30 tháng 4. 1975-2025
Chào mừng kỷ niệm 50 năm giải phóng miền nam thống nhất đất nước.
4月30日。 1975年ー2025年
ベトナムの南部解放50年を祝します。
Độc lập Tự do Hạnh phúc Việt Nam.
独立 自由 幸福 ベトナム
Kỷ niệm 53 năm quan hệ ngoại giao Việt Nam - Nhật Bản.
ベトナムと日本の国交53年を祝します。
引用開始→ 終戦の記憶、今も鮮明に サイゴン陥落時の戦車指揮官―勝利の旗「全て終わった」と安堵・ベトナム
(時事通信 外信部 2025年04月27日 18時59分配信)
【ハノイ時事】ベトナム戦争の終結を決定付けた1975年4月のサイゴン(現ホーチミン)陥落から30日で50年。北ベトナム軍の戦車は
激しい攻撃をくぐり抜け、サイゴンの南ベトナム大統領官邸に突入した。官邸に入った戦車「390号」の指揮官を務めたブー・ダン・トアンさん(78)は勝利の旗が掲げられた時、長年にわたる戦争が「全て終わった」と安堵(あんど)したのを今も鮮明に覚えている。トアンさんは65年、北ベトナムの人民軍に入隊。当時のベトナムは南北に分断され、米軍が軍事介入を本格化させつつあった。そうした中、戦争を終わらせたいという気持ちがあった。
軍では戦車の操縦士に選ばれた。戦車の内部は狭く、背が高過ぎてはいけない。身長160センチのトアンさんは「まさに操縦士に適していた」という。
75年時点の階級は中尉で、「203戦車旅団」に所属する戦車指揮官として、サイゴン解放作戦への参加を命じられた。作戦ではサイゴン川に架かる橋付近で待ち構える南ベトナム側と激戦を繰り広げた。「弾丸が雨のように降り注いでいた」(トアンさん)が、何とか橋を渡ってサイゴン中心部に進み、大統領官邸の正門前に到着。北ベトナム軍の戦車がもう1両来ていたが、トアンさんが直進を指示した390号が最初に突撃したという。
突入後、トアンさんは戦車を降りて銃を持ち、同僚が旗を掲げるのを手伝った。南ベトナムの政権関係者らが官邸の広間に集められ、当時のズオン・バン・ミン大統領が政権を明け渡そうとする場面も目撃した。
ベトナム戦争について、大きな犠牲を払いながら「平和を渇望して戦い続けた」とトアンさん。「南北が一つになって国民に十分な食事がもたらされ、子供たちが教科書を携えて学校に行くことができるようになった。これこそが大きな幸せだった」と振り返る。その後も軍隊で過ごしたが、終戦の時を「決して忘れることはない」と語った。←引用終わり
引用開始→ 高まる存在感、残る課題 日本とも協力強化―ベトナム終戦から50年 (時事通信 外信部 2025年04月30日 07時05分配信)
【ハノイ時事】南北ベトナムが戦ったベトナム戦争がサイゴン(現ホーチミン)陥落による終戦を迎えてから、30日で50年。統一されたベトナムはグローバルサウス(新興・途上国)の一角として、国際社会での存在感を高めつつある。半面、戦争に伴う人々の間の心情的なわだかまりや、米軍が使用した「枯れ葉剤」の後遺症といった課題は、いまだ残っている。ベトナムの2024年の国内総生産(GDP)は前年比7.09%増。25年も8%以上という強気の目標を掲げる。人口も戦後生まれの若い世代を中心に1億人を超えた。最高指導者のトー・ラム共産党書記長は終戦50年に合わせた論文で、南北統一の意義を強調するとともに「これまで以上に自立的で強靱(きょうじん)な経済を築くことが不可欠だ」と表明した。
外交面でも立場の異なる大国などと、しなやかに渡り合う。インド太平洋地域で覇権を争う米中それぞれと最上位の「包括的戦略パートナーシップ」を結び、ロシアとも伝統的な友好関係を維持する。
今月27日からは石破茂首相が訪問し、ファム・ミン・チン首相との会談で日越の安全保障協力強化で合意。トランプ米政権の高関税政策を受け、中国が東南アジア諸国への影響力拡大を図る中、ベトナムは安保面でも地域の重要プレーヤーとなりつつある。
発展の一方、戦争の傷痕が完全に癒えたわけではない。米軍は戦争中、ゲリラの拠点だった森林に枯れ葉剤を投下。被害者支援団体によると、ベトナム人480万人が浴びたと言われ、深刻な障害が指摘されている。下半身がつながった結合双生児として生まれた「ベトちゃんドクちゃん」のように、その影響は戦後世代にも残る可能性がある。
兄との分離手術を受けた「ドクちゃん」ことグエン・ドクさんは、時事通信の書面インタビューで、何度も手術を受け、健康問題にしばしば直面していると打ち明ける。それでも、どんな障害者であれ「困難を乗り越える意志と強さを常に持ち続けてほしい。自分を助けることができるのは、誰よりも自分自身なのだから」と語った。←引用終わり
引用開始→ 米、拭えぬ苦い記憶 ベトナム戦後50年、教訓残す
(時事通信 外信部 2025年04月30日 07時06分配信)
【ワシントン時事】南ベトナム(当時)の首都サイゴン(現ホーチミン)が陥落し、ベトナム戦争が名実ともに終結して丸50年。軍事介入が失敗し、約5万8000人の兵士の命を失った米国にとって、苦い記憶は今も拭えないままだ。ワシントンの桜が満開だった3月29日、花見客が行き交うベトナム戦争戦没者慰霊碑の前で開かれた追悼式典に、南部バージニア州の退役軍人ダン・カービーさん(81)の姿があった。
カービーさんは陸軍に徴兵され、1969年6月からベトナムに出征した。「地雷を踏んで吹っ飛ばされたが、幸い手と足は残っていた」と当時を振り返る。
米国はベトナムの共産主義化が他の自由主義国家に波及する「ドミノ理論」を唱え、これを阻止する名目で軍事介入に踏み切った。しかし、米国から遠く離れた場所で何のために戦うのか、カービーさんには理由が見えなかったという。「正気ではなかった。あの戦争での教訓は、アジアの地上戦に巻き込まれないということだ」と訴えた。
第2次大戦後、超大国となった米国は、ベトナムで自らの軍事力の限界に直面した。戦争の泥沼化と膨らむ戦費、増え続ける犠牲は、国民の厭戦(えんせん)気分につながり、大きな反戦運動に発展。しかし、米国はその後もイラクやアフガニスタンなどで軍事介入を繰り返した。
ベトナム戦争に関する多数の著書があるサンディエゴ州立大のグレゴリー・ダディス教授(軍事史研究)は「ベトナム戦争は米国人にとってトラウマとなっているが、われわれは教訓を十分に学んでいない」と指摘。「ベトナムでうまくいかなかったことが、なぜイラクやアフガンで機能すると考えたのか、自問しなければならない」と批判する。
米国は1973年までに撤退。ベトナムは米国が警戒する共産主義国として南北統一を果たした。それでも両国関係は近年、改善が進み、ベトナムは2023年、対米関係を中国やロシアなどと同じ最上位の「包括的戦略パートナーシップ」に格上げした。←引用終わり
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