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2025/04/19

近代150年の都市「神戸」について、ほぼ半世紀にわたり様々な事を想起し、政策は僅かな思い込みや誤謬で回復まで半世紀を要する事を遺しておく

ある時、カナダからの訪問者が、
「神戸は、どんな街ですか?」と問い、それに対し答えた事は・・・


神戸は、
① 日本が「鎖国」をしていた当時、凡そ160年前に近代化を目指すため、日本で最初に外国船に向け「開港」し、訪れた「外国人の居留地」を整備した事で始まった都市です。


② その後、貿易港として「神戸港」の機能を整え、貿易金融、船舶・用船、倉庫業、造船、鉄鋼、繊維工業、ゴム工業などが集積されるに従い、周辺地域や各地域から様々な労働力が集まり形成されました。


③ 神戸の中心は、いわゆる「外国人居留地」が軸で、周辺域に「金融・保険」「商流」「輸出入貿易」「居留外国人向けサービス業」「生活品内需」などが提供また交換される都市になりました。


④ 神戸はあくまでも「外国人居留地」を中心軸で、周囲に「金融」と「商流」を支える街区を自然に整え、中心市街地を形成し、さらにその外縁に、いわゆる「インナーシティ(商工住混在地域)」を擁し、更にその外側に住宅地を保ち機能を整えた事で、開港後の僅か100年ほどで教科書どうりの人口100万人の大都市になりました。


⑤ 住宅地は、前が海で後に六甲連山(1000m)があり、平地が少ない事情もあり、当初は標高100m程の地までを開発し充てています。

ー2 東側に位置する元の武庫郡(東灘区)は神戸市に編入され、隣接する芦屋市と共に優良な住宅地を形成しています。

ー3 西側は、須磨の山脈(六甲連山の西端)に沿い住宅地が整えられ、供給され人口膨張に応じ都市としての機能を保ちました。

ー4 現在は、更に西側へ市域を拡大し隣接する明石市を北側から包むように、あるいは北東地域では有馬を超え三田市の境界までを市域に収めています。


⑥ 東側は、外国人も含め事業経営者を含む、神戸での職業従事者と大阪での職業従事者が居住し、西側も、同様に外国人も含め事業経営者を含む神戸での職業従事者が居宅を求め、街区を形成しました。


⑦ 垂水区(もと明石郡)や西区(もと明石郡)、また北区の大半(美嚢郡)は「播磨国」で何よりも「摂津国」でなく生活文化圏が根本的に異なるのです。


神戸市は元の市街地を除くと、その凡そ65%以上が「播磨(播州)」です。
*実は、この点への理解が不十分で、神戸の都市としての空間概念を混乱させ生活文化を混迷させている大きな要因でもあります。


⑧ 神戸市が、重厚長大とされる産業に頼り、あるいは国際貿易港としての特定重要港湾であった1970年代は、まだまだ燦然と光り輝いておりました。

ー2 しかし、貿易を支える船舶輸送は急速な「コンテナ化」が進み、ばら積みのバルク船は衰退し、神戸港での積み替えも大きな変換を余儀なくされ、コンテナ化を見越した港湾整備を進めましたが、コンテナ船は大型化する一方で、水深で対応限界があり「神戸港」は貿易港・積替港としての役割やポジションを終えつつあります。


⑨ それを見越して1970年代の初頭にはWWⅡの敗戦からの復興計画の重要政策であった「神戸沖空港」が俎上に上り、大阪伊丹に代わる国際空港機能を設置整備し「海空一体都市」の推進が、最重要政策になりました。

ー2 しかしながら、以前にも触れましたが、1973年の神戸市議会の反対決議を受け、市長選挙で後継候補の故・宮崎辰雄氏は、社共の票が欲しいとして「神戸沖空港」の推進政策を放棄し降ろしてしまったのです。

ー3 ここから約10年を超え、神戸市政は「市民の安心」「健康と福祉」行政に軸足が移り、市域にあった「重厚長大産業」は他地域へ移転し、税収も喪い、雇用と労働の場も大量に消滅しました。

ー4 この間、須磨区の山中(ポートアイランド建設に要した土砂採取地後)に大規模住宅地を、市街地とそれを結ぶ地下鉄を建設し、更に六甲連山の北側に大規模な住宅地を開発し提供しました。

ー5 それもあり、一時的には、神戸市への流入人口は増加に転じ、ピーク時は147万人までになりましたが、神戸市内での就業可能な業務の収容数が全体を均衡させるに及ばず、新規に開発提供した地域の常住人口は減少を重ね、神戸市の人口総体も急減する状況に見舞われています。

(以前にも指摘しましたが、就業可能な職種が神戸市中心部には少ないのです)

(大阪への通勤は長期的に無理があり、定住人口減に直結しています)


⑩ 神戸空港を設置整備するために、知人のY氏が担当になり猛烈な取り組みで挽回し、市営の第三種空港として2006年に開港し、その種の制約空港の中では利用者数が国内で1位にあるとか。

ー2 それもチャーター便ながら、ほぼ定期に近い国際線を誘致した事は、Y氏の奮闘努力を思うと慶賀の至りですが、僅かな思い上がりと度し難い誤謬が、その半世紀後に重大な「失政結果」として、大阪市の西の方にある単に図体の大きな都市に神戸は成り下がってしまっているのです。

ー3 「山が、海へゆく」は、故・宮崎辰雄元市長の自慢著書ですが、
それは宮崎氏の前の市長「原口忠次郎」氏の功績なのです。
それを宮崎氏は単に食い潰したと言えなくもありません。


⑪ 神戸市は、未だに大都市の経済社会軸になる雇用を生み出す産業を創出形成できていません。
現在の神戸市は「神戸のスィーツ」で周辺の地域を惹きつけ、やや「ドメスチックバウンド(国内からの旅行客)」にイメージを売っているだけで、軸になる観光整備も手付かずで、1回行けばそれでヨシの中途半端な大都市に堕して、既に20年といえますね。


⑫ その意味で、カナダからの訪問者に、
「神戸は幕末(160年前)の開港と外国人居留地で窓の役割を果たし、船舶による国際貿易の輸出入や中継で昔は栄えた中途半端な大都市ですね」と、説明するしかなかったとも言えます。

ー2 悔しいけれどネ!
  神戸には残念だけれど」芯」というものがないのですよ。


「神戸」って、市街地の中心を海から眺めると、
後ろの六甲山(最高峰980m余)が海へ迫る、このような姿が特徴の街景を持つ印象深い街です。


また、何よりも神戸はUNESCO・(ICOMOS)が認定し、国際的に登録された数少ない「デザイン都市(2007年)」です。
「しおさい公園」から市街地を眺めた街景は国際的にも美しい特徴を持つ都市景観として評されています。
ここまでが、取り組みとして少ない知恵を尽くし神戸を離れる前に神戸へ提供できた(最後の)お返しです。


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BE KOBEのモニュメント(メリケンパーク)。


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夕景は、ポートアイランドの「しおさい公園」から海越えに市街地を遠望し。


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神戸空港(UKB)は中心市街地(鉄道ターミナル)から、僅か8キロ程先の海上空港です。

(3点の写真は、Feel KOBE/一社・神戸観光局からの拝借です)

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