80年目の「沖縄慰霊の日」に、遙か「摩文仁の丘」を思い、平和の礎に心を新たに
沖縄は「慰霊の日」です。
(熾烈な沖縄本島での組織的な戦争が終わった日です)
戦争で犠牲になり、図らずも落命され、
礎に名を刻されました24万2千5百余命の全ての皆様の御霊が心安らかでありますことを、
心より深くお祈り申し上げます。

(「平和の礎」の灯火と献花台)
沖縄戦の悲惨さは、
何よりも日本軍が、住民を巻き込み、住民を兵に加え、
あるいは住民を追い立て、住民を踏み付け、最後は住民を見棄て、軍が住民を守らなかった事に尽きます。

(東シナ海に沈む夕陽と、太平洋と東シナ海を分ける喜屋武岬を)
その底流には、
秀吉による「朝鮮出兵」に琉球王国が従わなかった事で、
それに対し島津の薩摩藩が制裁を加え、徳川幕藩体制下で「琉球王国」を「薩摩藩」が支配し、
①年貢の巻き上げ、②南蛮貿易の独占、それが薩摩藩の財力を支え、
明治維新に至る薩英戦争も戊辰戦争の費用を支えたともいわれている。
琉球王国の民は、
尚の琉球王国と島津の薩摩藩から二重に支配され強奪され続けた。
明治政府になり、
「琉球王国」は廃止され、沖縄県になり、約60年でWWⅡの激戦の場となり、
80年前の今日以降、1972年の5月15日まで、米国・米軍の占領下に置かれ屈辱的な支配を受けた。
1972年以降の新生の沖縄県(特に沖縄本島)では、
いきなり徹底した米国型の民主主義になり、
「人権と平和を希求する」主張の前に対抗できない。
続いて、
米国・米軍の占領統治と今も変わらない環境に対し、
「反基地」「反軍事」「反戦平和」の主張に有効に対抗できるチカラがない。
しかしながら、現実の沖縄は、
極めて保守的基盤が強く、家族中心主義の社会です。
これが沖縄の社会が歩まされた集約的な歴史的な実際です。
80年目に当たる2025年は、摩文仁の丘を訪ねることは控え、
平和を希求しつつ静かに処したく存じます。
「沖縄本島の位置が地政学的に重要なキーを握るため、状況や環境に差配されるのは自然な事で仕方がない」との説があります。
その主張は一定程度の理解もしますが、それは「構造的差別」である事の認識があるか否かで、発言者の有効性を考え規定します。
(写真は、これまでに平和の礎を訪ねました際のものです)
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