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2025/10/17

何らかの縁で、令和7年の「灘のけんか祭り」の投稿を求めアクセス頂く方が多いようで、事情により控えておりましたが神戸新聞の記事を引用投稿します

何処にいようが、自らが育った地の「秋季例大祭」は、
骨の髄まで染み至り、ナニモノにも代えがたい心の価値があります。


世界の各地で活躍し過ごす、この地に縁を保つ人の多くが「望郷の念」を持つものです。


知人からのメールでは、
サンディエゴで事業を営む子息が帰ってきたが、吾が方の姿を見なかったが、何かあったのか? と・・・

丁寧に事情を説明する返信をしたのですが。


地縁、血縁、業縁、扶け合い、稼ぎに応じ寄付し、地域全体が発展するよう支え合い、
地域の伝統や文化を大切に保持し、自然に分かち合い、地域を一体的に保全するチカラ。


この精神風土が日本社会の大きな基だと断言しておきます。
この精神を棄て去り、一体全体「日本に何が残るのか?」を問います。


昨年の今日は、血迷った「因幡の妖怪イシバカ」が、
ナンの戦略も持たず衆議院議員総選挙を始めた日です。


そして、その結果、決定的な「凋落」が始まりました。
怒田舎者が、正しく「日本の社会」を理解せず、
煽られるままに気安く考えたツケに、1年後は更に苦しめられています。


ネット上では、
表面に囚われ、大都市圏へ流され流れ着き、アップアップの生活を強いられる自称「国士ドモ」が、
空元気の「ネット保守」を勇ましく競い合っていますが、邪魔になっても益する事など一欠片もありません。


真正な保守とは、もう一度、改めて指摘しますが、
地縁、血縁、業縁、扶け合い、稼ぎに応じ寄付し、地域全体が発展するよう支え合い、
地域の伝統や文化を大切に保持し、自然に分かち合い、地域を一体的に保全するチカラに協力し協働できる事。
この精神風土が日本社会の大きな基に他なりません。


引用開始→ 氏子一丸、気迫の屋台練り 姫路・灘のけんか祭りが宵宮 7地区が宮入り、獅子も勇躍
(神戸新聞 2025/10/14 21:00)

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 「灘のけんか祭り」で知られる松原八幡神社(兵庫県姫路市白浜町)の秋季例大祭は14日に宵宮を迎えた。神社周辺では、灘旧七カ村(地区)の氏子たちが朝から勇壮な屋台練りを繰り広げ、「ヨーイヤサー」のかけ声や太鼓の音を秋空に響かせた。(藤本賢市)

 けんか祭りは県の重要無形民俗文化財に指定され、祭りどころの播磨を代表する祭礼の一つ。激しい屋台の練り合わせや、壊れれば壊れるほど神意にかなうとされる神輿(みこし)のぶつけ合いが見どころとして知られる。

 屋台は各地区を巡行した後、宮前に勢ぞろい。午前11時すぎ~午後3時半にかけて東山、木場、松原、八家、妻鹿、宇佐崎、中村地区の順に宮入りした。屋台の周辺は、地区ごとに異なる色のシデ棒が揺れた。拝殿前では東山地区の氏子らが獅子舞を披露した。

 神事を終えた屋台は、楼門前の練り場へ。屋台が激しくぶつかり合うと、観衆からは歓声が飛び交った。祭りを取り仕切る「年番」中村地区の総代、土師継士(はぜけいし)さん(74)は「地域一丸で準備を進めてきた。後は、最高の練りをするだけ」と力を込めた。

 15日の本宮では、同神社西の練り場「お旅山」などで、屋台練りや名物の「神輿合わせ」が予定され、祭りはクライマックスを迎える。←引用終わり


引用開始→ 姫路・灘のけんか祭りが本宮 氏子ら、早朝の神事「潮かきの儀」で士気高める
(神戸新聞 2025/10/15 11:27)

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 「灘のけんか祭り」として知られる松原八幡神社(姫路市白浜町)の秋季例大祭は15日、本宮を迎えた。祭典を取り仕切る「年番」・中村地区の氏子らは早朝の神事「潮かきの儀」に臨み、祭りの見どころとなる「神輿合わせ」などを前に士気を高めた。←引用終わり


引用開始→灘のけんか祭り本宮 神輿合わせ 舞う砂煙 屋台練りに歓声
(神戸新聞 2025/10/16 05:30)

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 15日に本宮を迎えた松原八幡神社(姫路市白浜町)の秋季例大祭「灘のけんか祭り」。祭典を取り仕切る「年番」・中村地区の氏子らは早朝の神事「潮かきの儀」で体を清めた後、名物「神輿(みこし)合わせ」を披露。大歓声の中、屋台の練り合わせも繰り広げろげ。←引用終わり

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