歳月は流れ時は過ぎゆき「人」も、それには抗えず、期待されようがされなくも、時々の役割を終え、やがて朽ち果て跡形もなく露と消え自然に還り終える
年末というか、歳末と言いますか、年の暮れの12月で、
手帳やらカレンダーの類いが送られ届く頃ですが、
「2026年分を以って終了します」との添付が目につくようで。
思えば、2025年は「昭和100年」でした。
明治という国家を1868年に打ち立て、
日本の植民地支配を目指す列強各国と渡り合い、
国家主権を強固に打ち立て独立を守り抜いた先人の意志と努力を讃え、
干渉に次ぐ干渉に耐え尊厳を守り通すため、数々の理不尽にも抗い近代国家の体裁を整え。
国防戦力として保持する有効なモノもない明治の為政者は、
国防力を整えるまでの後ろ盾を「国家神道」の精神主義に求め、
国民の統合を「天皇中心」に組織する事で、
幕末からの潮流「尊皇攘夷」で守り抜いたと見ています。
そして相克を繰り返し、
地方は貧しくとも近代社会の大都市を大阪と東京に打ち立て。
余剰として「大正の浪漫」を享受しながら、
一過性の幕を引かざるを得ない世界情勢に抗い立ち向かい。
明けて世は「昭和」とされ、
高揚した精神主義は「生産力」を正しく理解せず、
「神国不敗」「神州不滅」の「集団解離性障害」への統合を強制し、儚くも「木っ端微塵」にされ。
次は喪ったモノの回復に身命を賭して当たることで、
漸く世界の先進国と呼ばれる位置を姿を回復した。
悲壮な160年は、
近代国家の建設に掛けた50年を、
思い上がりが30年で徹底破壊させ、
再建に壮絶な時期を含む後半の80年を包摂する100年であった。
いままた、
現実の周辺を見ない空虚な「尊皇攘夷」が、
100年前と同様に空元気で沸き起ころうとしている。
その空気を冷ややかに眺め、
自らの意志で対処し切り拓いた30年ほどを回顧するなら。
「仕事をしているような、遊んでいるような、やはり遊んでいるような、でも、
仕事に取り組んでいるようにも見える」歳月の日々は、手抜きを許さない連続だったなと。
残余の10年ほどで、
「社会から頂戴したモノは、社会へお還しできた」ように思います。
「昭和100年」の今年(2025年)は、一際ながら、その種の回顧があります。
人は人生を過ごす際に、
例え「泥水」を強要され吸っても、
それは「手段」に過ぎず、人としての「尊厳」を棄てる事ではない。
人の「幸福」というモノは、人それぞれなので、他者が軽々にアレコレ言うべきではない。
自らの手と頭で出帆した「道楽」の1985年に戻り立った夏の日を思い起こし。
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