国際的にも多大な評価を得続け今も止まない20世紀の偉大なる日本人作家「開高 健」を追悼する司馬遼太郎の文と手紙が30年を経て発見される
生き方でというか、世間を斜見し、強く拈り言葉を編んだ吾が師。
開高 健 先生が、お亡くなりになったのは1996年の暮れでした。
初めてお目にかかれたのが1970年だった(念願が果たせた)と・・・
多くの人を介し、目の前にあの巨体が姿を現し、意外に小声で。
ご紹介を頂戴した方を中心に「ガハハ」笑いの絶えない場でした。
「ハナシは、改めて、アンタから聞くから、○日にでも・・・」と。
その後は冗舌な話題が続き、それではと・・・
改めて、○日に出向き、
懇切丁寧に話に耳を傾け、参考になる助言を受ける事ができた。
以降は、吾が方の師であり、愉快で豪放な方だった。
<阿Q妄伝 ©>
引用開始→「20世紀を代表する作家」 司馬遼太郎、開高健評す手紙発見―「日本語の改造心がけた」と遺族に
(時事通信 文化特信部 2026年04月25日 07時02分配信)ベトナム戦争の現地取材などで知られる芥川賞作家開高健が死去した直後の1989年12月、歴史小説家司馬遼太郎(1923~96年)が開高の妻で詩人の牧羊子宛てに送った手紙がこのほど見つかった。「わが国の二十世紀を代表する作家」と賛辞を贈り、「なによりも日本語を改造しようと心がけました」などと評している。司馬は翌月に行われた開高の葬儀で弔辞を読んでおり、その内容の元になったと思われる表現も随所に見受けられる。
「裸の王様」「輝ける闇」などの著作と共に、ウイスキーのコマーシャルでも有名だった開高は36年余り前、食道がんに肺炎を併発し58歳で死去。交流があった司馬はその直後、開高の妻宛てに弔電を打つとともに、手書きの書簡を速達で送っていた。東京都杉並区の自宅跡にある公益財団法人「開高健記念会」のスタッフがこのほど、妻の遺品の中から発見、5月1日から神奈川県茅ケ崎市の開高健記念館で開催される「『開高健と宝石』展」で展示される。
手紙では弔意を表した後、開高について「掘鑿のある文体を創造しようとし、日常会話までそのようになりました」と指摘。また「二十世紀のアメリカ語文体のようにシャベルで大地を掘るような文体を観照的な文章言語である日本語にというのが開高健の生涯の個人的作業であったでしょう」などというくだりもある。いずれも、90年1月に司馬が読み上げた弔辞の「地軸を掘りぬくほどの掘削力を持った希有の文体ができあがった」という部分と重なる。
開高を「この壮烈な文学者」と評した箇所では、「立ち木をそのまま彫刻したような作品を書いたという意味」との注意書きも付けている。
手紙はA3の用紙2枚。「かれは日常、開高語でしか話しませんでした」とも指摘し、「ついにはその話し方、スタイルが開高健そのものになりました」と分析。その上で「かれはこの言語をつかうために同国の同業者とも、月並みな関係を保つことがやや困難になり、さればこそ辺境を歩き、希少文化ともいうべき少数者たちと話すことを好むようになったのかとさえ思えます」との見解を記していた。←引用終わり
引用開始→ 司馬遼太郎が開高健の妻に送った手紙 (時事通信 文化特信部 2026年04月25日 07時02分配信)手もとによき便せんなく、このような紙に書くことをおゆるしください。悲しみのなかの牧さんからのお電話に、荊妻恐懼し、ことばをうしない、血が滞って、お電話がおわると、しばらくぼんやりしていたそうです。
「壮烈な文学者」と評価 死去直後、開高健に弔電―司馬遼太郎
開高健はわが国の二十世紀を代表する作家でありました。なによりも日本語を改造しようと心がけました。掘鑿のある文体を創造しようとし、日常会話までそのようになりました。
この人はよく書き、よく語りましたが、余人は知らず、この人にあっては、自分の全体を語ることでありました。十九世紀の英国の小浜のようにとりすました観照のために文■つかうことをせず、二十世紀のアメリカ語文体のようにシャベルで大地を掘るような文体を観照的な文章言語である日本語に■というのが開高健の生涯の個人的作業であったでしょう。(むろんアメリカうんぬんは比喩であって、アメリカ文■ことではありません)
かれは日常、開高語でしか話しませんでした。才能であるとともに志であり、ついにはその話し方、スタイルが開高健そのものになりました。かれはこの言語をつかうために同国の同業者とも、月並みな関係を保つことがやや困難になり、さればこそ辺境を歩き、希少文化ともいうべき少数者たちと話すことを好むようになったのかとさえ思えます。(少数民族などに対しては、ナマの感情や電流のとおったことばで話しかけることができます。戦物における軍人たちもまたそういう言語やスタイルで話せる相手だったでしょう。)
日常性のなかのかれは、おそらく牧さんと道子さんとの関係においてしかなく、他は東京にいても同業世界にいても、それらをかれは異言語の世界だとおもっていたにちがいありません。
それでこそ開高健でありました。存在そのものがその意味において壮烈であり、崇高でさえありました。ただ一人の人でもありました。だから牧さんは小生に弔辞をよむようにとおっしゃったのだろうと小生は即座に思い、新田くんに諾なる旨を伝えました。この壮烈な(立ち木をそのまま彫刻したような作品を書いたという意味)文学者にとっての小生の立場は明快であります。やや年長の同郷人ということだけであります。さらには、読者であるということだけであります。読者としての弔辞を申しのべます。
同封の小生の電報、電報係はじつによく聴きとっていて、そのとおりであります。
合掌
十二月十八日 司馬遼太郎拝
【注】原文のまま。■は解読不能。←引用終わり
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