出光興産のタンカー「日章丸」が信用と信頼の下に、ホルムズ海峡を粛々と越え、長い航路を無事に航海し伊勢湾へ還り着き知多製油所へ原油を送油し
築き上げた「信用と信頼」を揺るがしてはならない
改めて、WWⅡの敗戦により、多くの生産手段を喪った日本。
その国として、民として、ナニモノにも代えがたいと守り抜いたのは「信用と信頼」だった。
当時も今も日本人は本質的に人としての「約束」や「矜持」はモチロン、大切に「精神性」を重視する。
何かにつけて「国家、民族、宗教性」を重視するのは、長い歴史を保持する側には重要な事だ。
成り上がり者が、カネにモノを言わせ勝手な振る舞いをする「成り上がり国家」とは根本的に異なる。
いつも、何か、誰か、何処かを踏み付け、恐喝し、強奪支配する。
特に、アジアとアフリカまた中・南アメリカは犠牲にされた。
それに対し、踏み付けられた側が、自らの主権を主張するのは間違っているのか!?
国際社会は、トランプの横暴を、いつまで、どこまで許すのか?
<コラコラコラム ©>
引用開始→ ホルムズ通過の「出光丸」日本に到着、サウジ産原油200万バレル運ぶ…中東情勢悪化後で初
(2026/05/25 11:45・2026/05/25 12:40更新)石油元売り大手・出光興産の子会社の原油タンカー「出光丸」が25日正午前、愛知県知多市沖の桟橋「伊勢湾シーバース」に到着した。2月下旬に中東情勢が悪化して以降、ホルムズ海峡を通過して日本に着いた最初の原油タンカーとなる。
ホルムズ海峡を通過し、伊勢湾に入った出光丸(25日午前11時10分、三重県沖で、読売ヘリから)=大久保忠司撮影
出光丸はパナマ船籍で全長333メートル。日本人乗組員3人が乗船し、船舶位置情報サイト「マリントラフィック」によると、25日朝時点で伊勢湾内を航行している。出光興産によると、サウジアラビア産の原油約200万バレルを積んでおり、日本の国内消費量1日分の約8割にあたる。原油はシーバースから海底パイプラインを通じて同社の愛知事業所(知多市)の製油所に運ばれる。経済産業省によると、出光丸は4月下旬にホルムズ海峡を通過後、インド半島の南からマラッカ海峡、南シナ海を経て日本近海へ到着した。複数の政府関係者は、出光丸のホルムズ通過にあたり「イラン側に通航料は支払っていない」と説明している。
在日イラン大使館は4月下旬、X(旧ツイッター)に、1953年に英国の封鎖を突破してイランから石油を買い付けた出光興産のタンカー「日章丸」の画像を投稿していた。ENEOSグループの原油タンカーも5月中旬にホルムズ海峡を通過している。←引用終わり
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一部引用開始→ 出光丸が戦場の海峡を通過できた理由…73年前に封鎖の海を突破した「日章丸事件」とは
(讀賣新聞 2026/05/13 15:00 編集委員 丸山淳一)米国とイスラエルが2月末にイランを攻撃し、イランがこれに対抗してホルムズ海峡を事実上封鎖してから2か月が経過した4月末、ペルシャ湾内にとどまっていた日本の大型タンカー1隻が200万バレルの原油を積んで海峡を通過した。石油元売り大手、 出光いでみつ 興産の子会社のタンカー「出光丸」。3月初めにサウジアラビアで原油を積んだが、ホルムズ海峡が通れなくなり、アラブ首長国連邦(UAE)沖で停泊していた。米国・イスラエルとイランが戦闘状態に入ってから日本関連の船舶は3隻がホルムズ海峡を通過しているが、原油タンカーは初めて。通過料は支払われていないという。
出光丸(出光タンカーホームページより)
在日イラン大使館が投稿した「日章丸」の画像。顔写真は新田辰男船長(4月29日)=X(旧ツイッター)から出光丸がホルムズ海峡を通過した直後、在日イラン大使館はX(旧ツイッター)に、昭和28年(1953年)に英国の封鎖をかいくぐってイランから石油を買い付けた出光興産のタンカー「日章丸」の画像をつけて、「この遺産が意義を持ち続けている」と投稿した。イランが出光丸のホルムズ海峡通過を許したのは、「日章丸事件」と呼ばれる一件があったからだとみられている。
イラン産石油製品を満載して川崎港に入港する日章丸
イランが通過を許可したといっても、ホルムズ海峡はイランが封鎖し、米国が逆封鎖して緊張が高まる戦場だ。ただ1隻、丸腰で通過した出光丸の乗組員は相当な勇気と細心の注意が必要だったろう。だが、73年前の日章丸は、今回の出光丸とは比べ物にならないくらい危ういものだった。隠密裏にペルシャ湾の奥深くまで入り込み、英国が自分のものだと主張する石油製品を積み込んで、ホルムズ海峡を抜けてからも英国軍艦の監視をかいくぐるため、あえて危険な海域を通って、日本に戻っているのだ。だからこそイランは73年を経てもそのことを忘れず、かつて離れ業をやってのけた出光興産の船を特例扱いしたのではないか。まずは日章丸事件が起きた経緯と、日章丸の航跡を振り返ってみよう。
イラン石油の「買い手」に出光興産が名乗り
昭和26年(1951年)3月、イラン国民議会は石油国有化法案を可決し、イラン政府は英国の石油メジャー、アングロ・イラニアン石油(AIOC)の接収に着手した。英国政府は一方的な国有化に激しく反発し、ペルシャ湾内に軍艦を送り、イラン産の石油を買い付けるタンカーを 拿だ捕ほ すると警告した。実際に昭和27年(1952年)6月にはイタリアの石油会社がチャーターしたタンカーをアラビア半島南端のアデン港(当時は英国の保護領)に強制入港させ、積んでいた石油を差し押さえている。敵対国が米国ではなく英国、敵対の理由が核開発ではなく石油の国有化という点は異なるが、ペルシャ湾に送られた軍艦が海上封鎖するという状況は今と重なる。国有化されたアバダン製油所(1951年撮影)(『昭和戦後史。イラン石油を求めて。日章丸事件』から転写)
一方的に国有化して製油所を接収されたら、接収された側は怒って当然とも思えるが、イランは独立後も英国の影響力が強く、石油輸出の利益を全く得られない状況にあった。利益は原産国とメジャーが折半するのが普通だったから、イランが独立国として、自国の資源は自国のものだと宣言したのは、必ずしも無謀な行動とは言い切れない理由があった。イランは英国艦隊の海上封鎖によって自国の原油を輸出できなくなり、石油の買い手を求めていた。この要請に応じたのが出光興産だった。同社は石油メジャーの資本が入っていない「民族系」企業で、自前の大型タンカー、日章丸を持っていた。しかも社長の出光佐三(1885~1981)は統制や既得権を打破してのしあがってきた「石油業界の異端児」で、石油メジャーが世界の石油市場を支配する状況に不満を抱いていた。日本でイラン産石油を買う可能性がある石油会社は、出光しかあり得なかったといえる。
乗組員にも行き先を伏せ、連絡は暗号電信
英国の海上封鎖をかいくぐるには、イラン行きは隠密裏に進めなければならない。日章丸は昭和28年(1953年)3月23日に神戸港を出港しているが、行き先はサウジアラビアとされ、アバダンを目指すことを知っていたのは新田辰男船長ら数人だけだった。乗組員が行き先がイランだと知るのは、インド洋コロンボ(現在のスリランカ)沖でのことだったが、コロンボ沖で暗号電報を出すことも事前に細かく決められていた。日章丸と出光本社の無線交信用に作られた暗号表(『昭和戦後史。イラン石油を求めて。日章丸事件』から転写)
英国軍に位置を特定されないように、出光との連絡は暗号電信を使い、英国軍艦がいそうな海域では一切の電信をしないこと、毎日正午に出す位置情報の連絡はしないこととされた。拿捕に備えて食料は1か月余計に積んでいたが、徹底した隠密行動で、往路は英国軍に捕捉されることなく、日章丸は4月10日にイランのアバダン港に到着する。海外通信社が、日本のタンカーがイランに現れたことを報じ、日章丸はたちまち世界の注目の的となる。英国は直ちに駐日大使に調査を命じ、日章丸の動きをマークする。もう隠密航海はできない。どうやって日本に帰り着くか。
4月15日、日章丸はアバダン港を出港。船底部を擦りながら浅瀬をぎりぎりで突破し、16日には夜の闇に隠れてホルムズ海峡を通過。ペルシャ湾を出てからは通常の航路を大きく外れ、スンダ海峡を目指す。往路で通ったマラッカ海峡に面するシンガポールは、当時はまだ英国の植民地だった。待ち伏せているだろう英国軍艦の裏をかいたのだ。
各種資料から筆者作成
夜陰に乗じてジャワ海の危険な暗礁海域を通過し、27日にはスンダ海峡を通過する。ジャワ海からガスパル海峡周辺は暗礁やサンゴ礁があり、太平洋戦争の沈没船なども多い。船長は航海日誌に「無事にジャワ海を抜けた時には宗像大社のご守護に感謝した」と記している。ちなみに宗像大社は出光佐三の出身地、福岡県宗像市にあり、佐三は海運の守り神である宗像大社を厚く信仰していた。日章丸事件当時、東京・東銀座にあった出光興産本社
切られていた無線電信が再開され、ジャワ海を抜けたことが出光本社に伝わったのは30日。本社はさぞほっとしたかと思いきや、「難所を抜けたことで、かえって英軍に拿捕される恐れが高まった」という声が出たという。だが、太平洋上で英軍が接近してくることはなかった。洋上で拿捕しなくても、日章丸は日本に帰ってくる。到着してから日本の裁判所に仮処分を申請し、積み荷を差し押さえてしまおう、と考えたのだ。
これを察知した出光は、「週末に仮処分申請が出ても、決定は週明けになる。土曜日に日章丸を入港させて週末に荷を下ろしてしまおう」と、帰路を急いでいた日章丸に、入港を2日遅らせるよう指示を出している。AIOC側はその手は食わないと、日章丸の帰港を待たずに日本の領海に入ったところで仮処分申請を出すために位置の探索を強化する。出光側は日章丸の位置を悟らせないため、「5月8日、徳山(山口県)に入港する」という偽情報を流し、徳山油槽所には実際に受け入れ準備を指示する――。まさに虚々実々の駆け引きが繰り返された。
イラン産原油2万1800キロリットルを積んで出光興産川崎油槽所の桟橋に到着した日章丸
東京地裁で開かれた「石油裁判」の第1回口頭弁論風景。右側が英国側(『昭和戦後史。イラン石油を求めて。日章丸事件』から転写)日章丸は5月9日、出光の川崎油槽所に無事到着した。AIOC側の仮処分申請による裁判の第1回口頭弁論が行われたのは日章丸の到着と同じ5月9日だった。仮処分申請は27日に却下され、AIOCは即日控訴するが、10月になって控訴を取り下げ、裁判は出光側の勝訴に終わった。
官民あげて出光を後押し
出光佐三氏(出光興産ホームページより)
日章丸事件がよく知られるようになったのは、百田尚樹さんのベストセラー小説『海賊とよばれた男』と、同書を原作にした同名の映画が平成28年(2016年)に封切られたことが大きい。小説と映画の主人公で、映画では岡田准一さんが演じた国岡鐵造は規制、独占、既得権を打破してのしあがっていく業界の異端児として描かれ、日章丸(映画では「日承丸」)の事件は、そのクライマックスとなっている。鐵造のモデルはむろん、出光佐三である。小説や映画が描く通り、佐三がいなければ、日章丸の離れ業は達成できなかったことは間違いない。だが、佐三だけを英雄視すると、この一件の本質を見誤る。出光がイランから石油を輸入するには、代金のドルを割り当ててもらい、銀行が信用状(LC)を発行し、積み荷などに保険をかける必要がある。ドルの割り当ては通商産業省(現・経済産業省)、信用状は東京銀行(現在の三菱UFJ銀行)、保険は東京海上火災(現・東京海上日動火災保険)が行っているが、それぞれの会社や役所では「リスクが大きすぎる」とする声もあった。それぞれの担当者は、地道な根回しを繰り返し、「失敗したら責任をとる」とたんかを切って、出光の味方についている。
ブリヂストン石橋正二郎氏邸で開かれた会談の出席者。前列右から石橋社長、イラン密使のホスロブシャヒ氏、周東経済安定本部長、後列右端が郷裕弘氏(『昭和戦後史。イラン石油を求めて。日章丸事件』から転写)
そもそも、イランが石油の買い手を探していることを出光興産に伝えたのは、ブリヂストン創業者の石橋正二郎(1889~1976)だった。日章丸がイランへの航海に出る1年前の昭和27年(1952年)3月28日夜、石橋は自宅の応接間に、佐三の弟で出光興産専務だった出光計助(1900~94)と、イラン産石油を売り込むため来日したイランの“密使”、ホスロブシャヒを招き、両者を引き合わせている。出光佐三と計助は同じ九州出身の石橋と親交があったが、この日は石橋からの電話で要件もわからず石橋邸に出向いている。この時まで出光は、イランが石油の買い手を探していることを知らなかった。
この時撮られた写真には、通産官僚だった郷裕弘(1917~91)、大蔵省(現・財務省)OBの青木一男(1889~1982)、さらに現職の国務大臣だった周東英雄(1898~1981)経済安定本部長が写っている。郷は石橋の娘婿で、通産省の山本高行(1907~61)の懐刀と呼ばれていた。密使の来日を知った山本が、大蔵省や閣僚の有志も巻き込み、郷の義父である石橋に一肌脱いでもらったのだろう。公式には政府は出光のイラン産石油輸入を知らないことになっていたが、水面下ではその1年前から、出光に日章丸を使ってイラン産石油を輸入するよう政府の要人が動いていたことになる。
出光は外務省とも事前に調整を重ねているが、多くの外務省の官僚も、保身を考えるなら明らかにマイナスなことにあえて首を突っ込み、「本来はできないことだが、こうすればできないことはない」と、出光の「横紙破り」を応援していたという。←一部引用終わり
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