先日、ある場で「筑波大学」が、入学者選抜に「面接」を義務づけるとした事で意見が交わされた。
オブザーブする側としては、その発言に対し真に興味を惹かれた。
いわゆる発言者は一定の知見を保つ「カシコの人」で、
方法論や、煩雑さ、その指摘が相次ぎ、面接する側の力量の差により合否が決まるのは理不尽だとか。
あるいは、必ず「面接指南」の進学塾が現れるだろうとか、
真に興味深い指摘や意見が交わされていた。
そこで欠落していた事は、
採用する側の意図や目的を斟酌せず、現代社会の一般的な価値観や意識に依る意見は、
おそらく「筑波大学」が目指す方向に沿う展開では無かった。
ただ一人から、
自分は「採用する側の目的や意図を考え」面接に臨む。
そして目的に沿う人物と出会えたら、
その人の魅力や技量を引き出せるように質問で援護射撃すると表明があり、
意図に沿う意見として重視した。
事業者の採用面接も、
大学の採用面接も、目的や意図に沿う人財かどうかがポイントであり、
俄仕立ての「面接進学塾」では底が浅いため底割れ露見するため無理がある。
世間では、詐欺紛いの「就職活動コーチング屋」が、
大手を振っているが、日本の社会意識構造というか稚拙で幼稚な安易主義が、
真剣勝負や争いを避け傘っていくのかと・・・
米国社会での大学選択は、
対象としての自身の学びや研究テーマなどの取り組みで選択する。
対して日本の大学は、
世間というか市場が「格付け」をし「序列化」する事で「優劣」を決め。
それが「学生・卒業者」評価とレッテル貼りへ直結し、
世間が受け入れ喧伝する事でポジション化を競い合っている。
何を学び、その知識や知恵を世に問い、如何に活かすかではなく
「出身大学」の名を巧妙に使い、無能でも有利なポジションを獲得するか競い合い、
滑稽にもチカラを割いている。
それが真に珍奇な事であるとの自覚を欠くままに、
まるで宗教のように信奉し、学びを磨くのでは無く「大学名」を磨こうと拘るのだ。
特に「K」のヒステリックなまでの拘りは汚嗤いで大笑いだ。
それは明治に近代国家を目指した時に「T官立大学」を頂点に、
ヒエラルキーを形成した事が、今に至るまでの巨大な弊害を生み大きい。
日本人は、
常に「中心」を求め崇め奉る精神文化を重視してきた事もあり、
いまも重大に考え集権に従う従順さを保持する社会を形成している。
とにかく、
日本人は、名代や名のある(誰もが識る)事が大好きで、
その僅かな違いを強調する「ランキング」に差配され、
無理矢理の「ポジション」を受け入れ喧伝し、
その適応性や有用性を精緻に考え「評価」する事をしない。
<コラコラコラム ©>
引用開始→ アメリカの大学はなぜ偏差値で序列化できないのか? ハーバードに代表される「アイビー・リーグ」だけではないトップ大学群の数々、安易な序列化を阻む各大学の個性
(MSN/マネーポストWEB 2026/06/09)
アメリカの大学入試では、学力試験だけでなく、部活動や課外活動、ボランティア経験、面接などを通して受験者の「全人格」が評価されると言われる。背景には、「一度のペーパーテストでは人間の能力は測れない」という価値観と、社会に貢献する人材育成への信頼がある。そこに、日本のような大学の“偏差値序列”は存在しないという。

グローバル社会の教育観をもとに、AI時代に求められる人材像とは――。アメリカ在住の作家・ジャーナリストの冷泉彰彦氏の著書より、一部抜粋・再構成して紹介する。【前後編の前編】
AI時代にも通用するアメリカの大学の「人の選び方」
ここでは、アメリカの大学入試の考え方について見ていきます。もちろんこれは、あくまでアメリカ特有のものであるのは間違いありません。ですが、21世紀の現在、そしてAIが人間の頭脳労働に取って代わろうとしている時代、人間がAIの届かない高度な判断を担っていくには、アメリカの大学が持っている大学教育の考え方は、十分に意味があると考えられます。
なぜか? 人材観の部分に加えて、選抜の具体的な方法を見ることで、子どもへどんなメッセージを出したらよいかが、より具体的に見えてくると思うからです。
初級の頭脳労働はAIに負けるかもしれません。ですが、AI時代だからこそ、残っていく人間の頭脳労働もあります。
アメリカの大学は、これに100%の答えを持っているわけではありませんが、世界の中で最も近い答えを持って教育をしているのは事実だと思います。そして「AI時代でも活躍できる人間をどう選抜しているのか」という観点で見ると、さまざまなことを示唆しているのです。
アメリカの大学入試は、一言で言えば「全人格を判定するもの」です。もちろん、高校の成績表や、大学進学希望者を対象とした全米共通の標準学力テストである「SAT」などの成績も評価されます。ですが、それに加えて履歴書の部分では、部活動や課外活動の履歴も重視されます。また、ボランティア経験なども重要です。さらに、多くの名門大学は面接試験も行っています。
その全体像はベールに包まれており、たとえば要素別に点数を計算して合否を決めているという内部の証言はあるのですが、各校はその厳密な基準は明らかにしていません。
日本で比較するのであれば、どちらかと言えば、大学入試よりも「就職活動」に近いイメージかもしれません。ある意味では、主観的な判定をしているのです。
では、アメリカの社会はどうして、こんな「主観的な合否判定」を受け入れているのでしょう?
2つ理由があります。
1つ目は、過去200年以上の大学教育の歴史の中で、この方法がうまく機能してきた、優秀な人材を選抜して育ててきたという実績があるからです。何よりも、「社会の役に立つ人材」を選んで育ててきたわけで、「アメリカの繁栄はアメリカの大学教育の成果だ」という考え方があります。
2つ目には、アメリカの社会には、「1回のペーパーテストで判定できるのは人間の一部の能力」だから、もっと総合的な判定をして、人間の能力を多角的に検証しないと、逆に「不公平」だという考え方があるからです。こうした考え方が根づいているということが背景にはあります。
明確な「序列」のないアメリカの大学
まず、志望校の選び方――アメリカの大学入試においては、これが何と言っても難題ですが、その背景には、日本とは異なる事情があります。
偏差値で序列があるわけではないし、序列的なものはあるにしても、その中で「少しでも上に」入れればいいという単純な決め方ができないのです。大きなくくりとしての「格の違い」はあるのですが、一校刻みの「序列」というものはありません。
たとえば、ハーバードかスタンフォードか、プリンストンかMIT(マサチューセッツ工科大学)か。併願して複数の大学に受かったとして、第三者から見れば「贅沢な選択」かもしれませんが、どちらを選ぶのかは決して楽な選択ではありません。
何となく、ハーバードが世界一のようなイメージがありますが、実際の大学入試では、そうした単純な基準で選ぶ人は少ないと思われます。同じように、それぞれのレベルの中にはさまざまな個性的な大学が並んでおり、それぞれに明確な序列というものはないのです。
米国北東部にある、ブラウン大学、コロンビア大学、コーネル大学、ダートマス・カレッジ、ハーバード大学、ペンシルベニア大学、プリンストン大学、イエール大学の8つの名門私立大学は、「アイビー・リーグ」と呼ばれています。
東海岸でこのアイビー・リーグと同等のグループと言われる、カーネギー・メロン、シカゴ、ジョンズ・ホプキンス、ジョージタウン、ワシウ(ワシントン大学セントルイス校)、デューク、ボストン・カレッジといった大学群にしても、序列化は簡単にはできません。
これとは別に、少人数教育で定評のある「リベラル・アーツ・カレッジ」という存在もあります。女子学生の場合は、女子大学という選択も可能で、レベル的にはこれも十分に名門大学のカテゴリに入ってきます。
そもそも、「理系と文系」という区別もありません。MITやカリフォルニア工科大学(カルテック)、ジョージア工科大学など、理工系中心の大学もあるにはありますが、たとえばMITにはMBA(ビジネス実務の大学院)が併設されている点で、日本的な理工系大学の枠組みには収まりません。
このように、アメリカの大学の場合には、一般的には理系・文系の区別はなく、出願も合否選考も一括で行われるのです。漠然と「文系」だからということで、志望校が自然に絞り込まれるということでもなく、文系だから競争率が低いというようなこともありません。
つまり、日本のように、まず「理系か文系か」を決め、「偏差値で国公立を狙い、滑り止めに私立を数校」といったような選択方法は取れないことになります。
*冷泉彰彦著『世界の一流は「子ども」に何を教えているのか』(クロスメディア・パブリッシング)より一部を抜粋・再構成
▼▼▼後編記事▼▼▼
【つづきを読む→】アメリカの名門大学を「カテゴリ分け」で解剖 「アイビー・リーグ」から「パーティー大学」まで
【プロフィール】
冷泉彰彦(れいぜい・あきひこ)/ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部ディレクター。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て1993年に渡米。著書に『アメリカの警察』(ワニブックス新書)、『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)、『「関係の空気」「場の空気」』(講談社現代新書)など。有料の週刊メルマガ「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。←引用終わり