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2026/07/28

「飛鳥・藤原宮都」の世界文化遺産登録を祝し、今日に至る「律令国家としての日本の成立」を如何に意味や意義を伝え歴史的な理解を得るか智恵が要る

初めて「飛鳥・藤原宮都(跡)」を訪ねたのは、確か1986年の初秋の頃でした。
その時は、国交省が所管する「飛鳥公園管理事務所」で、飛鳥保全に国としての取り組みをヒアリングした。


中尾山古墳が見える会議室で、全般的な課題を示され、その時点での取り組みについて説明を受けた。


その後、
何度も「明日香の地」をお訪ねし、ボランティアとして案内される地元の皆さんから篤い説明を受けた。


しかしながら、
飛鳥の時代に細かな知識を保たない側には、正直な話、
全く従いていけず、理解できなかった。
当時、理解できたのは、
「聖徳太子」に懸かる史跡と「蘇我入鹿」についての史跡であったろうか。
「時系列で体系化」の必要性を考えた。


ハッキリ言えば
「亀石」だの「酒船石」だの言われても理解の外だった。


あれから40年の歳月が流れ過ぎた。


この間に、
「飛鳥・藤原宮都」に懸かる発掘が為され、
必要な歴史的資産を保全整理し、資料を収集する体制も整えた。
しかし、発掘された「史跡」は検証され記録された後に埋め戻されている。
モノというか「Ths is」がない。
基本は、歴史に造詣があり、想像的にイメージを拡げる事ができると楽しいだろうが、
その「智恵」も「知識」もなければ、単なる広大な場に過ぎない。


現代の技術を応用すれば「AR」を用いた再現画像や解説だろうと考えますが・・・
ここは「智恵」の出し処ではないかと。


<コラコラコラム ©>


引用開始→ 「飛鳥・藤原」がついに世界遺産へ 日本の原型が生まれた地に、今なぜ注目が集まるのか
(ウェッジ クロスコンテンツ室 2026年7月27日)

 「飛鳥・藤原の宮都」が世界遺産登録を受け、国内外から注目を集めている。「日本」という国号、「天皇」という称号、律令制による中央集権国家――現代日本の骨格をなす概念の多くが、6世紀末から8世紀初頭にかけて、この地で生まれた。単なる観光地ではない。ここは、日本という国家が"かたち"をなした場所だ。

 その舞台裏に眠る謎と真実を、丁寧に解き明かしたのが、『飛鳥・藤原に隠された古代宮都の謎』(瀧音能之編、古川順弘著、ウェッジ) である。宮都の変遷から古墳・寺院・神社の成り立ち、そして藤原京誕生の歴史的意義まで、世界が認めたこの地の価値を深く知るための羅針盤となる一冊だ。世界遺産登録を機に、あらためて「日本のはじまり」と向き合ってみてはいかがだろうか。

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藤原宮

世界遺産登録が実現―― 飛鳥・藤原とは何か
 「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産には、飛鳥宮跡、藤原宮跡、石舞台古墳、高松塚古墳、キトラ古墳、飛鳥寺跡、川原寺跡、山田寺跡など、飛鳥・藤原エリアを代表する遺跡・古墳・寺院跡が名を連ねる。

 奈良県は長年にわたって登録推進活動を続けてきた。地元の橿原商工会議所や明日香村も「飛鳥・藤原の宮都」の魅力発信に力を入れ、官民一体で機運を高めてきた経緯がある。登録実現は、地域にとって悲願でもあった。

 飛鳥という地は、奈良盆地の東南部に位置する南北4キロ、東西1.5キロほどの山里風の小盆地だ。その小さな土地に、なぜ100年以上にわたって日本の宮都が置かれ続けたのか――その問いへの答えが、今まさに世界から問われている。

天皇が代わるたびに都が動いた―― 飛鳥の宮都史
 飛鳥に宮都が置かれたのは、推古天皇が即位した6世紀末が最初ではない。5世紀前半に在位した允恭天皇がすでに「遠飛鳥宮(とほつあすかのみや)」を営んでいたとされ、それ以降も複数の天皇が飛鳥に宮を構えた記録が残る。

 注目すべきは、藤原京以前の宮都が、天皇の代替わりごとに場所を移していた点だ。崩御した天皇による「死の穢れ」を忌む風習があったとも、建築技術の問題があったとも言われるが、定説はない。いずれにせよ、この時代の「宮」はあくまで天皇個人の居所であり、後世の「都」とは根本的に性格が異なっていた。

 694年、天武天皇の遺志を受けた持統天皇が藤原京へ遷都したことで、状況は一変する。持統・文武・元明の3代にわたって使われた藤原京は、日本で初めての本格的な都城であり、中国の律令制にならった計画都市だった。碁盤の目状に街路が整備され、多くの役人や商工人が暮らした。日本に「名実ともに都と呼べる場所」が誕生した瞬間である。

古墳から寺院へ―― 宗教的転換の最前線
 飛鳥のもうひとつの顔は、宗教的変革の舞台だという点だ。石舞台古墳をはじめとする巨大古墳が集中する一方で、飛鳥には日本最古の本格的伽藍を持つ飛鳥寺が存在する。

 飛鳥寺は、587年の「丁未(ていび)の乱」の後、蘇我馬子が発願して創建した寺院だ。一塔三金堂形式という伽藍配置は、高句麗の清岩里廃寺(せいがんりはいじ)や百済の王興寺と共通するもので、朝鮮半島からの影響を色濃く受けている。日本に仏教が公伝したのは6世紀なかばごろとされ(538年説が有力)、欽明天皇の時代に百済の聖明王から伝えられたのがその始まりとされる。

 古墳という在来の宗教施設と、仏教寺院という外来の宗教施設が同じ土地に共存している――飛鳥はまさに、日本の精神的風土が塗り替えられた現場だった。その痕跡は、1400年以上を経た今も、地中と地表の両方に刻まれている。

高松塚・キトラ古墳が示す「国際都市・飛鳥」
 1972(昭和47)年の高松塚古墳壁画の発見は、当時の日本に「飛鳥ブーム」をもたらした。直径約20メートルの円墳の石槨内壁には、玄武・青龍・白虎・朱雀の四神、男女群像、そして天井には金箔で描かれた星宿図が広がっていた。女子群像の服装は高句麗の古墳壁画との相似が指摘されており、7世紀末から8世紀初頭の飛鳥が、いかに東アジアの文化的影響を受けていたかを物語る。

 同様の壁画を持つキトラ古墳とあわせて、これらは「壁画古墳」と呼ばれ、装飾古墳とは明確に区別される系譜に位置づけられる。被葬者は諸説あり確定していないが、当時の日本が単なる辺境ではなく、大陸・半島と活発に交流した「国際社会の一員」であったことを雄弁に示す存在だ。

「日本」という国の誕生を目撃する場所
 飛鳥時代とは、豪族連合的な政権が中央集権国家へと脱皮していく激動の時代だった。「天皇」という称号が用いられ始めたのも、「日本」という国号が公的に定着したのも、この時代――とりわけ7世紀末から8世紀初頭のことである。

 710(和銅3)年の平城京遷都にあたり、元明天皇は「飛鳥の里をあとにしてしまったら、あなたがいるあたりも見えなくなってしまうのでしょうか」と詠んだ。飛鳥はすでに奈良時代において、日本の「ふるさと」として宮廷人の胸に刻まれていたのだ。

 世界遺産登録により、その記憶はいよいよ世界共通の財産となった。現地を訪れれば、飛鳥川が流れる山里の風景の中に、国家誕生の息吹を感じることができるだろう。

世界遺産登録を機に、古代史の核心がよみがえる
 飛鳥・藤原は、政治・宗教・文化のすべてにおいて、日本という国家の原型が凝縮された地だ。2026年7月の世界遺産登録は、単なる「観光振興」ではなく、この地が持つ歴史的価値が国際社会に認められた瞬間である。

 その全貌を体系的に知りたいなら、歴史学者・瀧音能之氏が編者を務める『飛鳥・藤原に隠された古代宮都の謎』が格好の案内役となる。飛鳥の宮都がなぜそこに築かれたのか、古墳と寺院が共存する意味とは何か、藤原京はいかにして誕生したのか――現地を訪れる前に、あるいは訪れた後に、手に取る価値がある一冊だ。←引用終わり

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